昭和
1953年 | 地元、石川県羽咋市の眉丈山で8羽のトキを見かけたが、当時購入した鳥図鑑には「能登のトキは滅びた」と記されてあった。 |
1954年 | 眉丈山中でトキの射殺事件発生。 能登に生息するトキの生態研究、調査、保護活動を本格的に始動する。 |
1958年 | 羽咋市教育委員会、県教委、県林務課へトキの禁猟区設定を要望するが 猟友会等の反対のため、棄却される。 東京へ行き「日本野鳥の会」の中西悟堂会長と山階鳥類研究所の山階博士に、お会いし相談する。 続いて、文化庁、文化財保護委員会を訪ねて、トキの禁猟区設定を要望する。 |
1959年 | 中西悟堂会長と山階博士が来県。 その後続いて、東京の文化財保護協会が能登のトキの状況を視察のために来県された。 日本鳥類保護連盟理事長、山階芳麿として羽咋市長、羽咋市議長、県知事県議会長宛てに「朱鷺保護依頼」を書面にて要望した。 石川県は11月、文化の日前後にトキ保護を訴えるポスターを県下各市町村へ配布して県民に啓発を促した。 ようやく羽咋市の眉丈山をはじめ、奥能登にも禁猟区が設置されたが、 対策の手遅れであった。 |
1960年 | 活動を開始して7年もの間トキが増えた様子が無いのは近親交配も 一因と考えて外国産のトキの移入を検討する。 鮎釣りの毛針に、中国産トキの羽毛が使用されていることが分かる。 トキが国際鳥類保護会議において国際保護鳥類に決定する。 |
1964年 | 能登のトキが最後の一羽になる。 |
1970年 | 能登の一羽のトキをめぐり今後の扱いの論議をしたが、文化庁、文化財保護委員の指示で、捕獲して佐渡へ移す。 |
1971年 | 佐渡へ移したトキが死んだとの連絡が入る。 |
1972年 | 朝鮮半島38度線付近に、4羽のトキ発見の一報が入るが、束の間に姿を消す。 |
1981年 | 6月の新聞で、中国に野生のトキが7羽生息していることを知り現地の環境、保護対策の状況を知りたいと思った日本鳥類保護連盟が日中愛鳥教育視察団を編成して、江蘇省へ行くとの情報が有り、参加する。 現地では保護対策によってトキが増えていることを知る。 |
1987年 | 日本鳥類保護連盟石川支部を結成。支部長となり保護啓発、募金集め、会員募集など、益々精力的に活動する。 |
平成
1991年 | 羽咋市日中友好協会で西安行きの募集が有り、応募する。 陝西省の野生動物保護協会副会長の王庭正氏と林業庁の曹永漢氏へ当方の訪中日程を連絡した。 8月22日西安市内で行われた親善パーテイで王庭正氏と野生動物資源管理工作所副秘書長の常秀雲女史に会い、西安滞在中にトキの詳しい説明の出来る人に会わせて貰えるよう要望する。 8月25日早朝、林業庁から電話があり、迎えの車に乗り林業長庁の会議室に着くと、西安の任国儀林業庁長と西北大学の陳服官生物学系教授他が出席しており、日本での野生のトキの絶滅した話もして、中国のトキの説明を受けた。 現地では、野生のトキは約30羽、洋県のトキ救護飼育繁殖センターで6羽、北京動物園で6羽、合計40羽あまり生息していることが分かった。 洋県の現地には朱鷺保護観察所があり、11名の職員が密猟監視、観察記録、飼養の管理をしているとの事。 トキの繁殖地では、徹底して狩猟の禁止、森林伐採の禁止田畑には農薬や化学肥料は使用しないとの事である。 「現地の農民がトキ保護のため、減収なのでは?」と訊ねるとシイタケ栽培等、 農薬を使用しない生産物の生産を指導しているとの 説明を受けた。 もっと詳しくトキの習性を知るため、中国と共同研究のために営巣地の現地見学の希望を申し出ると、次回の来中までに政府の許可を取り付けてくれることを約束してくれた。 「この地球上から野鳥の一種族であるトキの姿が消える事は人類の不幸につながることだ」との任庁長の言葉が印象に残った。 |
1993年 | 中国政府の許可が下り、5月に西安を出発して、トキの生息地である洋県の未開放地区まで車で約10時間揺られ、陝西トキ保護観察所に到着する。 翌朝、観察所長の路宝忠氏の案内で朱鷺繁殖地へ向かう。 1時間40分で車移動の終点である洪水口村に着いた。 そこから山道を約6時間歩き、奥山の三分河村に到着した。 三分河村にはトキ保護観察所があり5人体制でトキの監視、 観察を行っていた。 水田が餌場となっている。 農民は自給自足で山間の田畑に米作、畑作を無農薬で耕作している。 おりしも農繁期であったので牛を使う田起こしや、田植えの手伝いをして農民との交流を図った。 「植えた苗を踏み倒すトキが憎くは無いか?」と農民にたずねると「世界で絶滅に瀕する大切なトキを守るのは当然我々の務めだしトキが踏んだ苗は翌朝に植え替えればよい」との言葉に感動させられた。 トキの営巣は保護観察所からフイールドスコープを覗くと、親鳥が餌を運んでくるのが確認できる。 各営巣木には天敵のヘビが地上から上がれないように措置がしてあり、巣の下には落ちる雛鳥を受けるためのネットも張ってある。 野生のトキが順調に繁殖するには農民の理解と協力が不可欠だと思った。 保護観察所を北へ5Km行くと日本と中国で、平成2年に共同で建築された「陝西トキ救護飼養繁殖センター」があり、そこには7人の研究員が常駐して幼鳥の救護、人工繁殖、人口飼育等を行っている。 その他トキの繁殖棟やどじょうの養殖池等の施設もある。 孵化後死亡する卵や幼鳥もいるが、少しづつではあるが増殖しているとの事である。 トキの生息地にある南街小学校を訪問し、トキの貴重性、自然保護について話をして、児童らと将来に渡りトキを守ることを誓い合った。 張天経小学校長が日本の小学校との交流を希望されていたので、帰国して羽咋市教育委員会に伝えると 羽咋市の余喜小学校が交流校に決まる。 |
1997年 | 中国のトキを守る会を結成した。 その後、12回に渡り洋県へ出掛け、山中の営巣状況の視察。 トキの ネグラと営巣のための森林不足と、えさ不足の解消が急務であることを実感。 |
2001年 | 12月 石川県にいた越冬ツバメを保護し、航空会社に依頼して、沖縄県へ送った 10月 日本中国朱鷺保護協会が、第1回中国朱鷺視察団を派遣した 日本中国朱鷺保護協会が NPO法人(特定非営利活動団体)の認証を受けた 9月 第3回 朱鷺写真展を 日中友好協会小松支部の主催で、 石川県小松市JR小松駅前の 小松大和7階ギャラリーにて開催した 第2回 トキ写真展を 石川県石川郡美川町JR駅2階にて開催した 7月 広報活動のため 第1回 トキ写真展を 石川県羽咋市にて開催した 6月 17日 日本中国朱鷺保護協会を設立した 5月 中国陝西省洋県へ出掛け、現地の人達との交流、共同研究を行った |
2002年 | 第2回中国朱鷺保護視察団を派遣して、飼育と野生のトキが生息する環境を調査し援助活動。 機関誌『TOKI』第1号を発刊した。 将来、能登半島にも、トキと人間が共生出来る環境作りの推進。 21世紀にトキを守る学童の愛鳥教育。 トキを守るために街頭募金で市民に保護を呼びかけて、啓蒙。 |
2003年 | 機関誌『TOKI』第2号を発刊した 第3回中国朱鷺視察団を派遣した |
2004年 | 機関誌『TOKI』第3号を発刊した 第4回中国朱鷺視察団を派遣した |
2005年 | 機関誌『TOKI』第4号を発刊した 第5回中国朱鷺視察団を派遣した |
2006年 | 機関誌『TOKI』第5号を発刊した 第6回中国朱鷺視察団を派遣した折、鳥インフルエンザでトキへの影響が心配されるため、日本外務省経由で中国から石川県へのトキ譲渡の実現について、中国政府に依頼していただくよう、陝西省野生動物保護協会に依頼した |
2007年 | 機関誌『TOKI』第6号を発刊した 第7回中国朱鷺視察団を派遣した |
2008年 | 通常総会で、村本義雄氏が高齢のため会長を辞任し、名誉会長に就任した 新会長に佐々木満夫氏を任命した 新事務所の所在地を 〒925-0022石川県羽咋市深江町ト89番地(中田千里副会長の自宅)とした 親子対象の自然体験事業の展開を開始した 石川県主催の「かつてのトキ生息地を訪ねてツアー」事業の支援をした |